2012年 07月 05日
大飯原発ゲート占拠・封鎖を経験して(前篇) ――未完のままの出来事 |
大飯原発ゲート占拠・封鎖を経験して
――未完のままの出来事――
切迫した現場からの呼びかけ
大飯原発の再稼働の前日。2012年6月30日。大飯原発へとつづく唯一の車道にあるゲートが、再稼働に反対する人々によって封鎖されたことを知る。
知人から携帯にメールが届く。
TwitterやUstreamでも、現場の様子が伝わってくる。ゲートの道路はバリケードによって封鎖されていた。各地から集まった人々は、自らの体を鎖でゲートにくくりつけ、体を張って封鎖を続けている。切迫した現地の様子が、痛いほど伝わってきた。これで再稼働を遅らせることはできても、たぶん止めるのは厳しいのだろうなとは思った。けれども、このまま何もせずに、数週間前に見たあの道路とゲートを、悠々と政府の役人や関電職員が通り過ぎ、再稼働してしまう、というのはおかしい。また、自分は少しの時間とお金で現地へ行けるにもかかわらず、何も抵抗せずに、再稼働の手続きを見過ごしてしまうことも、おかしいのではないかと思った。
自宅のある京都から大飯までは思ったより近い。自動車でたったの2時間半から3時間くらい。さっそくレンタカー会社に電話する。「土日なんで、もう予約がいっぱいですよ~」。ならばと両親に電話する。「大飯原発前の抗議行動に行くんだけど、車貸してくれないかな…」。真正面から両親に反原発のことを切り出したのは今回が初めてかもしれない。両親は「ああいいよ」の一言だった。
占拠・封鎖の空間
7月1日。朝5時半、自宅を出発した。友人たちも同乗し、3名での移動。友人は、午後に予定があるにもかかわらず、数時間だけでも、ということらしい。
京都で有料道路に入り、大飯近くのICで高速を降りる。目の前に若狭湾が広がっている。天気は大雨。車の後ろを見ると、機動隊を運ぶ装甲車やパトカーが5台くらい連なって原発に向かっていた。のどかな海と山とのギャップ。現場の切迫した状況が感じられた。
大飯原発前に近づくにつれて、車道の両側にたくさんの車が止まるようになった。50台くらいはあっただろうか。ゲートに到着したのは8時半。ゲートに作られたバリケードの姿は圧巻だった。ゲートの手前と後ろに自動車がそれぞれ数台、ぴったりとくっつけられて並べられ、人が通るスペースはほとんど残されていない。人が通れそうな僅かな脇道には、鎖やロープが縦横無尽にはりめぐらされ、丁寧にかきわけなければ、通ることができない。まるで、芸術作品のような出来栄えだ。再稼働阻止の本気の思いが伝わってくる空間だと感じた。初めてこのバリケードを通過したとき、背筋が伸びるような気持ちになった。

バリケードの手前10メートルくらいからは座り込むたくさんの人々。バリケードの向こう側、つまり、原発側には、それ以上の多くの人々が集まっていた。バリケードから原発側100メートルくらい奥のところに、機動隊と警備員の阻止線がある。集まった人々はゲートと道路を封鎖し、バリケードの前後の100メートル強の幅を完全に占拠・封鎖していた。数週間前に私が見たゲートの姿とはあまりにもかけはなれている。
集っている人は最も多かったであろう夕方頃で400人くらいいただろうか。京都や大阪、東京の反原発デモやイベントで顔を見たことのある人たち。沖縄の辺野古や高江への米軍基地・ヘリパッド建設反対のデモやイベントで出会っていた人たち。経済産業省前テントを運営している人たち。けれど、圧倒的に多いのは学生風の20代、30代前半の人たちだ。それも女性が非常に多かったのが印象的だった。こういう書き方はとても失礼なのかもしれないが、機動隊の激しい暴力と対峙する現場にいそうにない人、たとえば野外フェスやレイブに足を運んでいそうな雰囲気の人たちが多く集まっている。大飯原発再稼働という政府の決定は、実に多様な人々に、いてもたってもいられない切実な思いを抱かせたのだ。どこから、なぜ、どのように、この行動に参加したのかと、聞いてみたいと思う人ばかりだった。残念ながら、そういう時間はほとんどなかった。
ゲート奥の機動隊の阻止線に対峙しながら、「再稼働反対」のコールが続けられる。その後方にはたくさんのドラムや楽器を奏でる人々。また、次々に差し入れの食べ物と飲み物、カッパやタオルが運ばれてきた。どこからともなく、あたりまえに。
一方、対峙している機動隊や警備員も非常に若い。10代なのではないかという人も多かった。表情からは混乱と緊張が感じられた。「人を守るために仕事をしているんじゃないの?」、「何を守りたくてそこに立っているんですか!?」、「あなたたちにも家族や子供がいるでしょう」、「原発を止めるために、命令に背いて、その場を離れてほしい」。このように機動隊に語りかける参加者も多かった。若い機動隊員たちは、今、自らがどのような仕事をやらされているのかを少しずつ実感していったのではないだろうか。
占拠・封鎖・対峙によって生まれる即興の集団性
午前中、関電・大飯原発所長室の職員への抗議申し入れ書の提出。
そして、夕方5時頃、バリケードの前後から、50人ほどで隊列を組んだ機動隊が阻止線に続々と加わり始め、私たちはこれまでにない数の機動隊、警察、警備員と向き合うことになった。機動隊は戦闘服姿(野球のキャッチャーのような姿)で物々しい。少し高い位置で見張りをしている男性が、皆に「来てるぞー。スクラムを組もう!」と身振り手振りで伝えてくれる。お互い、肘を差し出して、スクラムを組み始める。占拠する私たちの列は3列くらいになった。

こちら側から、機動隊の阻止線を崩したり、突破するような行動は取られなかった。あくまで、私たちが引いているピケやバリケードのラインと空間を維持することが目指されていたと思う。誰かから指示されるのでもなく、話し合われたのでもなく、自然にそうなっている。
近くの男が「ガンジーだよ、ガンジー!」と呼びかけていた。また、別の参加者は「非暴力だよ!非暴力!手をこっちから出さへんで!」とも呼びかけていた。
まず、関電からの警告があった。小さなマイクでの警告で、何を言っているのかまったく聞えない。聞こえなくても、とりあえず警告した、という事実で良いのだ、という態度。提出した申し入れ書への回答もない。次に警察からの警告。直ちに離れること、バリケードとなっている車をどかすことなどを「命令」していたようだが、同じくほとんど聞き取れなかった。機動隊の阻止線の向こうで、指揮官や警察官らが、いそがしそうにマイクや携帯でやりとりを始め、身振り手振りで話し合っているのが見える。確実に実力で排除する行動が準備されていることを感じる。
そして、こちら側の緊張も高まっていった。今までとは違う空気に変わっていった。気づくと、スクラムを組んでいる私の隣の女性の腕と手から、彼女の震えが伝わってきた。何かがこみあげてきたのだろうか、泣きじゃくっている人もいる。背後からはドラムの力強い音が聞こえてくる。太鼓とともに狼煙をあげるような、暴力的な排除にまっすぐ向き合うような、そういう音だった。徐々に男性が最前列の女性と入れ替わっていく。「子どもがいたら、外に出そう!」という声もあちこちで発せられた。気づいた人間が気づいたことを伝え、それに同意できる人間はそれに応え、同意できない人間は自然にスルーしたり、もっとこうしたほうがいいんじゃないか、と伝えあったりする。名乗ることもなく、コミュニケーションはあちこちで取られた。
私はこれから数週間の自分の予定を思い出していた。まぁ、いざとなったら、たぶんなんとかなるくらいの予定だな、と冷静に考えた。
夕方6時頃、機動隊が動き出す。盾が肩の高さにまで上げられる。直後、ウォーっ、という大きな声とともに、盾を使って左右中央一斉に押しこんでくる。波のような塊が向かってくる感じだった。ガーっと後退してしまう。それでもこちら側は皆で声をあげ、スクラムを組み、踏みとどまろうとする。機動隊は一度止まる。そして、再び気持ちの悪い怒号をあげながら、襲いかかってくる。それが何度となく繰り返された。目の前の機動隊の壁の向こうで、悠々と指示を出す年配の指揮官の姿が目に入った。
6時からの最初の1時間はしんどかった。時間がたつにつれ、後退し、疲れてくる。いつまで占拠するのか、ということは話し合われていなかったように思う。少なくとも私の周りでは。経産副大臣や保安院職員がやってきて、夜9時に再稼働の作業に立ち会う。再稼働を止めること、そして、少なくともこのゲートからは彼ら(男ばかりだ)を原発に通さないことが暗黙の了解だった。だから、一つの目標は9時までは占拠・封鎖を続けること。しかし、9時はずいぶんと遠いものだと思った。それまでに簡単に排除されてしまうのではないか、とも感じた。ゲートをはさんだ反対側では、集った仲間が、警察によってごぼう抜きに去れているという情報も伝わってきた。関電・機動隊はさっさと排除し、ゲートの解放を目指していたと思う。8時頃までは、機動隊は波状的、実に積極的に攻めてきた。右から来たと思えば、左から。少し膠着状態が続いたと思ったら、急に押しこんでくる。こちらはじりじり後退していく。遠くにあったはずのゲート周辺の車やドラム隊に近づいていく。

しかし、機動隊との攻防がくり返されるなかで、私たちは冷静になっていった。機動隊のやり方に次第に慣れていき、声をかけあい、スクラムの組み方や向き、対峙の仕方を修正し、適切なものにしていった。疲れている人がいれば、元気な人間が後ろから交代を申し出る。後ろに引いた人たちは、膠着状態の間に、飲み物や食べ物を持ってきて回してくれた。「機動隊が右にまわったぞ!」、「くるぞくるぞ!」、「そっち大丈夫かー」、「あっちが手薄だよ」、「9時まであと90分!すごいぞ、止めてるぞ!」、「向こうはあせってる。今はこっちのペース!」などなど、冷静で、互いに鼓舞するような言葉が交わされていた。せめぎあう時間帯のサッカーの試合のようだった。しかし監督やコーチはいない。全員がフィールドプレーヤーだった。「押さないでくださ~い!」と言いつつ、ぐいぐい押しこんでくる機動隊に向けて、「いやーん、痛~い、やめてくれるぅ~」とちゃかしながら、空気をかえてしまう男。客観的には厳しい場面の連続なのだが、ジョークや笑い、ユーモアがあるから不思議だ。
それにしても、ドラムの音、「再稼働反対!」や「暴力反対!」という抗議の声は止まない。むしろ、時間とともに、強くなった。その粘り強さに、今目の前で形成され、変容しつづけているこの集団性は強いと思った。押しこまれつつも、膠着状態がおとずれると、ドラムの音やコールの声で思いを新たにし、態勢を立て直し、スクラムを組み直す。機動隊は徐々にあせっていった。耳のそばでの無遠慮な怒号や命令口調の叫び声、頭をこづいたり、見えないところで背中や足を蹴ったり殴ったり(女性の顔面をわしづかみにしたり、首にエルボーをくらわしたり、ひどい場面も多かった)、ということを繰り返していた様に、それを感じた。
この集団性のなかで、ドラムとはどんな存在だったのだろうか。スクラムを組んでいる私たちの多くは、背中を機動隊の盾に向けているため、ドラムを叩いている人たちと向かいあう。彼ら・彼女らが衰えることなく、身体全体でドラムを叩き続けている姿を確認するたびに、勇気づけられた。そして、ドラムのリズムとビートが、自らのコールと混じり合って、バイブレーションを生み出す。身体にエネルギーが補充される感覚も何度となく経験した。私だけでなく、他の参加者も同じように語っていた。ドラムや音楽は、「まだまだ続けるぞ!」、「合意してないぞ!」、「再稼働に納得してないぞ!」というコールとして鳴り響いており、「頑張れ!頑張れ!」と呼びかけつづける存在でもあった。また、ドラム隊は、目の前のスクラムと機動隊の攻防を見ながら、強さや速さを自然と変えていたように思う。だから、ドラムや音楽は、表面的な祝祭性を演出する道具ではなかった。フィールドプレーヤーを支えるサポーターではなく、ゲームのサウンドトラックでもない。スクラムの一部であり、非暴力直接行動による不服従の実践のとても重要な一部として加わっている。音楽と実践、ドラムとスクラムに境界はなく、地続きの別の実践、あるいは別の表現として存在していた。
また、苦しいなか、励まされた出来事が二つあった。
一つ目。左手の山の側面に、突然、横断幕を持った人たちがわーっと現われたこと。横断幕と手を振りながら、こちらに一生懸命エールを送ってくる。このときの、盛り上がりはすごかった。おそらく、ゲート前でごぼう抜きにされ、こちら側と分断されてしまった人たちが、警察の目を盗んで山を登ったのだと思う。ゲートの前と後ろがこうやって繋がった瞬間、ドラムもコールも急に大きくなった。「この期に及んで、さらに元気になるのかよ」という本音が機動隊の表情からは読み取れた。
二つ目は、Ustreamの生中継を行なっていたIWJをはじめとする市民メディア取材者とカメラの存在。機動隊が見えないところで、執拗につっかかってきたり、暴言を吐いたり、頭や顎や背中など殴ってくるような場面があると、さっとカメラが向けられた。見えないことにされてしまう出来事を追いかけ、機動隊の行動を抑える効果があった。また、参加者にとっては、カメラが、その向こうに、中継を見ている多くの人の存在を感じさせるものでもあったのではないか。スクラムのなかの参加者と市民メディア、カメラの向こうのWebを通じた参加者との集団性のようなものも形成されていたのである。市民メディア取材者は身体をあずけながら取材・撮影をしていたが、彼ら・彼女らはスクラムの一部にもなっていた。
このように、機動隊と対峙するなかで、スクラムを組む人々、ドラム隊、市民メディア、水や食料を配り歩く人たち、Web上の参加者などが、コミュニケーションを取り、励まし合い、結びつき、まとまっていった。実践の試行錯誤は、俯瞰する指揮者のもとで行われたのではなく、目の前の状況を読み解き、判断した一人一人の行動の連鎖によって生まれたものであり、即興の集団性を生み出すものであった。時間の経過とともに、集団性の強度と集中力は増していき、徐々に9時は遠いものでなくなった。十分持ちこたえられる時間に変わっていったのである。
「勝利」の経験 ?
少しずつ日が暮れ始め、電灯がつき、夜空に太った月が光る。隣りの男性が、「月がきれいで最高だー」と言い、親指をあげた。汗だくの身体に涼しい風が通り抜ける。山の木々が風を受けて、海のように揺れていた。機動隊の暴力にまみれた現場で、不思議な爽快感と美しさを感じた瞬間だった。
なんとすごい行動が続いているのだ、と思い、鳥肌が立ち、目頭が熱くなった。この現場に集まり、闘っている仲間の強さとしなやかさと笑い。これは希望だと思えるようになった。
8時前まで続いた機動隊からの暴力的な排除の動きは次第に弱まっていった。9時までの排除を諦めたのだろうか。副大臣らは、別ルートで大飯原発に向かうことになったのだろうか(後の情報で、船で上陸、原発入りしたことを知る)。
そして、9時。一斉にマスコミの記者らのカメラのフラッシュがたかれた。9時まで持ちこたえた安ど感と、再稼働はどうなったのかという不安とがない交ぜとなり、私はよく分からない気持ちになった。他の参加者も同じだったようだ。大きな喜びの声はあがらない。機動隊も引くことはなく、散発的に襲撃を続ける。「再稼働反対」の声、ドラムの音は鳴りやまず、続けられる。
12時頃。目の前で一斉に歓声があがる。車の上で人が飛びまわっている。旗がはちきれそうなほどに振られる。ゲート入り口の機動隊が撤退したのだ。そして、ゲートの外へと排除・分断されていた人たちが、バリケードを乗り越えこちら側に一斉に戻ってきた。あっという間に人があふれかえった。ドラムの音は強くなり、「再稼働反対」の声はますます大きくなった。踊りまくる人、抱き合う人、倒れ込む人。空間を人々が掌握しきったように感じた。機動隊の襲撃が始まって約6時間。機動隊のあれだけの襲撃にもかかわらず、参加者は服従せず、合意せず、その意志をそれぞれの身体で表現しきった。みんなが笑顔だった。いぶかしがりながらも、「勝利」、あるいは「解放」の経験がそこここに見て取れた。

「勝利」?再稼働は阻止できなかった、という情報は入ってきていて、ほとんどの人が知っていただろう。けれども、人々が目の前で感じているのは「勝利」感だ。政府・関電による再稼働決定や原発事故以降明るみになった原子力ムラという体制に、徹底的に服従しないこと、合意していないことをつらぬいたこと。即興の集団性のなかで、それぞれの意志・態度を再確認しつづけたこと。ある人が語っていた。「このバリケード、すごいでしょ。この空間を獲得できていること自体が、すでに勝利なんじゃないか。」この後、この空間から退いたとしても、今日の経験が各地に散らばり、別な形で持続するであろうことも大いに予感させる雰囲気もひしひしと感じられた。これらの意味において、占拠・封鎖の経験は「勝利」として実感されたのだと思う。
私はよれよれになって、スクラムをかわってもらい、路上に倒れこむように座り込んだ。目の前で、同じように座り込んでいる男性がいた。ずっとドラムを叩いていた人だ。「どうもありがとう。めっちゃ励まされたわ。厳しかったとき、ほんまに助かった」、「そう言ってくれると、嬉しいわ・・・」、そう言葉を交わして握手した。
もう体力も限界。今日、やれる範囲のことはやったかなと思った。12時半頃、迷いながらも、現場を去ることにした。
※その後については、「6.30午後3時半から始まった大飯原発正門封鎖行動は、7.2午前2時に勝利的に貫徹しました。現場に駆けつけてくれた仲間、カンパで活動を支えてくれた仲間、情報拡散に尽力してくれた仲間のおかげで、大きな行動をとることができました。」とのことである。http://oi55.blog.fc2.com/blog-entry-77.html 映像でも「貫徹」の様子が確認できる。 http://www.ustream.tv/recorded/23699152
――未完のままの出来事――
切迫した現場からの呼びかけ
大飯原発の再稼働の前日。2012年6月30日。大飯原発へとつづく唯一の車道にあるゲートが、再稼働に反対する人々によって封鎖されたことを知る。
知人から携帯にメールが届く。
【緊急です。拡散を!】再稼働の死のスイッチを入れさせない、非暴力直接行動の現場に来てます。現在、数人が大飯原発入り口ゲートを封鎖。機動隊が来ていますが、200人ぐらいで対峙。というか若い機動隊員たちを、皆して一生懸命に説得してます。来れる人は来てほしい!…回りに知らせてください。広めてください!関西の人、駆けつけてください。できたら遠方の人も!
TwitterやUstreamでも、現場の様子が伝わってくる。ゲートの道路はバリケードによって封鎖されていた。各地から集まった人々は、自らの体を鎖でゲートにくくりつけ、体を張って封鎖を続けている。切迫した現地の様子が、痛いほど伝わってきた。これで再稼働を遅らせることはできても、たぶん止めるのは厳しいのだろうなとは思った。けれども、このまま何もせずに、数週間前に見たあの道路とゲートを、悠々と政府の役人や関電職員が通り過ぎ、再稼働してしまう、というのはおかしい。また、自分は少しの時間とお金で現地へ行けるにもかかわらず、何も抵抗せずに、再稼働の手続きを見過ごしてしまうことも、おかしいのではないかと思った。
自宅のある京都から大飯までは思ったより近い。自動車でたったの2時間半から3時間くらい。さっそくレンタカー会社に電話する。「土日なんで、もう予約がいっぱいですよ~」。ならばと両親に電話する。「大飯原発前の抗議行動に行くんだけど、車貸してくれないかな…」。真正面から両親に反原発のことを切り出したのは今回が初めてかもしれない。両親は「ああいいよ」の一言だった。
占拠・封鎖の空間
7月1日。朝5時半、自宅を出発した。友人たちも同乗し、3名での移動。友人は、午後に予定があるにもかかわらず、数時間だけでも、ということらしい。
京都で有料道路に入り、大飯近くのICで高速を降りる。目の前に若狭湾が広がっている。天気は大雨。車の後ろを見ると、機動隊を運ぶ装甲車やパトカーが5台くらい連なって原発に向かっていた。のどかな海と山とのギャップ。現場の切迫した状況が感じられた。
大飯原発前に近づくにつれて、車道の両側にたくさんの車が止まるようになった。50台くらいはあっただろうか。ゲートに到着したのは8時半。ゲートに作られたバリケードの姿は圧巻だった。ゲートの手前と後ろに自動車がそれぞれ数台、ぴったりとくっつけられて並べられ、人が通るスペースはほとんど残されていない。人が通れそうな僅かな脇道には、鎖やロープが縦横無尽にはりめぐらされ、丁寧にかきわけなければ、通ることができない。まるで、芸術作品のような出来栄えだ。再稼働阻止の本気の思いが伝わってくる空間だと感じた。初めてこのバリケードを通過したとき、背筋が伸びるような気持ちになった。

バリケードの手前10メートルくらいからは座り込むたくさんの人々。バリケードの向こう側、つまり、原発側には、それ以上の多くの人々が集まっていた。バリケードから原発側100メートルくらい奥のところに、機動隊と警備員の阻止線がある。集まった人々はゲートと道路を封鎖し、バリケードの前後の100メートル強の幅を完全に占拠・封鎖していた。数週間前に私が見たゲートの姿とはあまりにもかけはなれている。
集っている人は最も多かったであろう夕方頃で400人くらいいただろうか。京都や大阪、東京の反原発デモやイベントで顔を見たことのある人たち。沖縄の辺野古や高江への米軍基地・ヘリパッド建設反対のデモやイベントで出会っていた人たち。経済産業省前テントを運営している人たち。けれど、圧倒的に多いのは学生風の20代、30代前半の人たちだ。それも女性が非常に多かったのが印象的だった。こういう書き方はとても失礼なのかもしれないが、機動隊の激しい暴力と対峙する現場にいそうにない人、たとえば野外フェスやレイブに足を運んでいそうな雰囲気の人たちが多く集まっている。大飯原発再稼働という政府の決定は、実に多様な人々に、いてもたってもいられない切実な思いを抱かせたのだ。どこから、なぜ、どのように、この行動に参加したのかと、聞いてみたいと思う人ばかりだった。残念ながら、そういう時間はほとんどなかった。
ゲート奥の機動隊の阻止線に対峙しながら、「再稼働反対」のコールが続けられる。その後方にはたくさんのドラムや楽器を奏でる人々。また、次々に差し入れの食べ物と飲み物、カッパやタオルが運ばれてきた。どこからともなく、あたりまえに。
一方、対峙している機動隊や警備員も非常に若い。10代なのではないかという人も多かった。表情からは混乱と緊張が感じられた。「人を守るために仕事をしているんじゃないの?」、「何を守りたくてそこに立っているんですか!?」、「あなたたちにも家族や子供がいるでしょう」、「原発を止めるために、命令に背いて、その場を離れてほしい」。このように機動隊に語りかける参加者も多かった。若い機動隊員たちは、今、自らがどのような仕事をやらされているのかを少しずつ実感していったのではないだろうか。
占拠・封鎖・対峙によって生まれる即興の集団性
午前中、関電・大飯原発所長室の職員への抗議申し入れ書の提出。
そして、夕方5時頃、バリケードの前後から、50人ほどで隊列を組んだ機動隊が阻止線に続々と加わり始め、私たちはこれまでにない数の機動隊、警察、警備員と向き合うことになった。機動隊は戦闘服姿(野球のキャッチャーのような姿)で物々しい。少し高い位置で見張りをしている男性が、皆に「来てるぞー。スクラムを組もう!」と身振り手振りで伝えてくれる。お互い、肘を差し出して、スクラムを組み始める。占拠する私たちの列は3列くらいになった。

こちら側から、機動隊の阻止線を崩したり、突破するような行動は取られなかった。あくまで、私たちが引いているピケやバリケードのラインと空間を維持することが目指されていたと思う。誰かから指示されるのでもなく、話し合われたのでもなく、自然にそうなっている。
近くの男が「ガンジーだよ、ガンジー!」と呼びかけていた。また、別の参加者は「非暴力だよ!非暴力!手をこっちから出さへんで!」とも呼びかけていた。
まず、関電からの警告があった。小さなマイクでの警告で、何を言っているのかまったく聞えない。聞こえなくても、とりあえず警告した、という事実で良いのだ、という態度。提出した申し入れ書への回答もない。次に警察からの警告。直ちに離れること、バリケードとなっている車をどかすことなどを「命令」していたようだが、同じくほとんど聞き取れなかった。機動隊の阻止線の向こうで、指揮官や警察官らが、いそがしそうにマイクや携帯でやりとりを始め、身振り手振りで話し合っているのが見える。確実に実力で排除する行動が準備されていることを感じる。
そして、こちら側の緊張も高まっていった。今までとは違う空気に変わっていった。気づくと、スクラムを組んでいる私の隣の女性の腕と手から、彼女の震えが伝わってきた。何かがこみあげてきたのだろうか、泣きじゃくっている人もいる。背後からはドラムの力強い音が聞こえてくる。太鼓とともに狼煙をあげるような、暴力的な排除にまっすぐ向き合うような、そういう音だった。徐々に男性が最前列の女性と入れ替わっていく。「子どもがいたら、外に出そう!」という声もあちこちで発せられた。気づいた人間が気づいたことを伝え、それに同意できる人間はそれに応え、同意できない人間は自然にスルーしたり、もっとこうしたほうがいいんじゃないか、と伝えあったりする。名乗ることもなく、コミュニケーションはあちこちで取られた。
私はこれから数週間の自分の予定を思い出していた。まぁ、いざとなったら、たぶんなんとかなるくらいの予定だな、と冷静に考えた。
夕方6時頃、機動隊が動き出す。盾が肩の高さにまで上げられる。直後、ウォーっ、という大きな声とともに、盾を使って左右中央一斉に押しこんでくる。波のような塊が向かってくる感じだった。ガーっと後退してしまう。それでもこちら側は皆で声をあげ、スクラムを組み、踏みとどまろうとする。機動隊は一度止まる。そして、再び気持ちの悪い怒号をあげながら、襲いかかってくる。それが何度となく繰り返された。目の前の機動隊の壁の向こうで、悠々と指示を出す年配の指揮官の姿が目に入った。
6時からの最初の1時間はしんどかった。時間がたつにつれ、後退し、疲れてくる。いつまで占拠するのか、ということは話し合われていなかったように思う。少なくとも私の周りでは。経産副大臣や保安院職員がやってきて、夜9時に再稼働の作業に立ち会う。再稼働を止めること、そして、少なくともこのゲートからは彼ら(男ばかりだ)を原発に通さないことが暗黙の了解だった。だから、一つの目標は9時までは占拠・封鎖を続けること。しかし、9時はずいぶんと遠いものだと思った。それまでに簡単に排除されてしまうのではないか、とも感じた。ゲートをはさんだ反対側では、集った仲間が、警察によってごぼう抜きに去れているという情報も伝わってきた。関電・機動隊はさっさと排除し、ゲートの解放を目指していたと思う。8時頃までは、機動隊は波状的、実に積極的に攻めてきた。右から来たと思えば、左から。少し膠着状態が続いたと思ったら、急に押しこんでくる。こちらはじりじり後退していく。遠くにあったはずのゲート周辺の車やドラム隊に近づいていく。

しかし、機動隊との攻防がくり返されるなかで、私たちは冷静になっていった。機動隊のやり方に次第に慣れていき、声をかけあい、スクラムの組み方や向き、対峙の仕方を修正し、適切なものにしていった。疲れている人がいれば、元気な人間が後ろから交代を申し出る。後ろに引いた人たちは、膠着状態の間に、飲み物や食べ物を持ってきて回してくれた。「機動隊が右にまわったぞ!」、「くるぞくるぞ!」、「そっち大丈夫かー」、「あっちが手薄だよ」、「9時まであと90分!すごいぞ、止めてるぞ!」、「向こうはあせってる。今はこっちのペース!」などなど、冷静で、互いに鼓舞するような言葉が交わされていた。せめぎあう時間帯のサッカーの試合のようだった。しかし監督やコーチはいない。全員がフィールドプレーヤーだった。「押さないでくださ~い!」と言いつつ、ぐいぐい押しこんでくる機動隊に向けて、「いやーん、痛~い、やめてくれるぅ~」とちゃかしながら、空気をかえてしまう男。客観的には厳しい場面の連続なのだが、ジョークや笑い、ユーモアがあるから不思議だ。
それにしても、ドラムの音、「再稼働反対!」や「暴力反対!」という抗議の声は止まない。むしろ、時間とともに、強くなった。その粘り強さに、今目の前で形成され、変容しつづけているこの集団性は強いと思った。押しこまれつつも、膠着状態がおとずれると、ドラムの音やコールの声で思いを新たにし、態勢を立て直し、スクラムを組み直す。機動隊は徐々にあせっていった。耳のそばでの無遠慮な怒号や命令口調の叫び声、頭をこづいたり、見えないところで背中や足を蹴ったり殴ったり(女性の顔面をわしづかみにしたり、首にエルボーをくらわしたり、ひどい場面も多かった)、ということを繰り返していた様に、それを感じた。
この集団性のなかで、ドラムとはどんな存在だったのだろうか。スクラムを組んでいる私たちの多くは、背中を機動隊の盾に向けているため、ドラムを叩いている人たちと向かいあう。彼ら・彼女らが衰えることなく、身体全体でドラムを叩き続けている姿を確認するたびに、勇気づけられた。そして、ドラムのリズムとビートが、自らのコールと混じり合って、バイブレーションを生み出す。身体にエネルギーが補充される感覚も何度となく経験した。私だけでなく、他の参加者も同じように語っていた。ドラムや音楽は、「まだまだ続けるぞ!」、「合意してないぞ!」、「再稼働に納得してないぞ!」というコールとして鳴り響いており、「頑張れ!頑張れ!」と呼びかけつづける存在でもあった。また、ドラム隊は、目の前のスクラムと機動隊の攻防を見ながら、強さや速さを自然と変えていたように思う。だから、ドラムや音楽は、表面的な祝祭性を演出する道具ではなかった。フィールドプレーヤーを支えるサポーターではなく、ゲームのサウンドトラックでもない。スクラムの一部であり、非暴力直接行動による不服従の実践のとても重要な一部として加わっている。音楽と実践、ドラムとスクラムに境界はなく、地続きの別の実践、あるいは別の表現として存在していた。
また、苦しいなか、励まされた出来事が二つあった。
一つ目。左手の山の側面に、突然、横断幕を持った人たちがわーっと現われたこと。横断幕と手を振りながら、こちらに一生懸命エールを送ってくる。このときの、盛り上がりはすごかった。おそらく、ゲート前でごぼう抜きにされ、こちら側と分断されてしまった人たちが、警察の目を盗んで山を登ったのだと思う。ゲートの前と後ろがこうやって繋がった瞬間、ドラムもコールも急に大きくなった。「この期に及んで、さらに元気になるのかよ」という本音が機動隊の表情からは読み取れた。
二つ目は、Ustreamの生中継を行なっていたIWJをはじめとする市民メディア取材者とカメラの存在。機動隊が見えないところで、執拗につっかかってきたり、暴言を吐いたり、頭や顎や背中など殴ってくるような場面があると、さっとカメラが向けられた。見えないことにされてしまう出来事を追いかけ、機動隊の行動を抑える効果があった。また、参加者にとっては、カメラが、その向こうに、中継を見ている多くの人の存在を感じさせるものでもあったのではないか。スクラムのなかの参加者と市民メディア、カメラの向こうのWebを通じた参加者との集団性のようなものも形成されていたのである。市民メディア取材者は身体をあずけながら取材・撮影をしていたが、彼ら・彼女らはスクラムの一部にもなっていた。
このように、機動隊と対峙するなかで、スクラムを組む人々、ドラム隊、市民メディア、水や食料を配り歩く人たち、Web上の参加者などが、コミュニケーションを取り、励まし合い、結びつき、まとまっていった。実践の試行錯誤は、俯瞰する指揮者のもとで行われたのではなく、目の前の状況を読み解き、判断した一人一人の行動の連鎖によって生まれたものであり、即興の集団性を生み出すものであった。時間の経過とともに、集団性の強度と集中力は増していき、徐々に9時は遠いものでなくなった。十分持ちこたえられる時間に変わっていったのである。
「勝利」の経験 ?
少しずつ日が暮れ始め、電灯がつき、夜空に太った月が光る。隣りの男性が、「月がきれいで最高だー」と言い、親指をあげた。汗だくの身体に涼しい風が通り抜ける。山の木々が風を受けて、海のように揺れていた。機動隊の暴力にまみれた現場で、不思議な爽快感と美しさを感じた瞬間だった。
なんとすごい行動が続いているのだ、と思い、鳥肌が立ち、目頭が熱くなった。この現場に集まり、闘っている仲間の強さとしなやかさと笑い。これは希望だと思えるようになった。
8時前まで続いた機動隊からの暴力的な排除の動きは次第に弱まっていった。9時までの排除を諦めたのだろうか。副大臣らは、別ルートで大飯原発に向かうことになったのだろうか(後の情報で、船で上陸、原発入りしたことを知る)。
そして、9時。一斉にマスコミの記者らのカメラのフラッシュがたかれた。9時まで持ちこたえた安ど感と、再稼働はどうなったのかという不安とがない交ぜとなり、私はよく分からない気持ちになった。他の参加者も同じだったようだ。大きな喜びの声はあがらない。機動隊も引くことはなく、散発的に襲撃を続ける。「再稼働反対」の声、ドラムの音は鳴りやまず、続けられる。
12時頃。目の前で一斉に歓声があがる。車の上で人が飛びまわっている。旗がはちきれそうなほどに振られる。ゲート入り口の機動隊が撤退したのだ。そして、ゲートの外へと排除・分断されていた人たちが、バリケードを乗り越えこちら側に一斉に戻ってきた。あっという間に人があふれかえった。ドラムの音は強くなり、「再稼働反対」の声はますます大きくなった。踊りまくる人、抱き合う人、倒れ込む人。空間を人々が掌握しきったように感じた。機動隊の襲撃が始まって約6時間。機動隊のあれだけの襲撃にもかかわらず、参加者は服従せず、合意せず、その意志をそれぞれの身体で表現しきった。みんなが笑顔だった。いぶかしがりながらも、「勝利」、あるいは「解放」の経験がそこここに見て取れた。

「勝利」?再稼働は阻止できなかった、という情報は入ってきていて、ほとんどの人が知っていただろう。けれども、人々が目の前で感じているのは「勝利」感だ。政府・関電による再稼働決定や原発事故以降明るみになった原子力ムラという体制に、徹底的に服従しないこと、合意していないことをつらぬいたこと。即興の集団性のなかで、それぞれの意志・態度を再確認しつづけたこと。ある人が語っていた。「このバリケード、すごいでしょ。この空間を獲得できていること自体が、すでに勝利なんじゃないか。」この後、この空間から退いたとしても、今日の経験が各地に散らばり、別な形で持続するであろうことも大いに予感させる雰囲気もひしひしと感じられた。これらの意味において、占拠・封鎖の経験は「勝利」として実感されたのだと思う。
私はよれよれになって、スクラムをかわってもらい、路上に倒れこむように座り込んだ。目の前で、同じように座り込んでいる男性がいた。ずっとドラムを叩いていた人だ。「どうもありがとう。めっちゃ励まされたわ。厳しかったとき、ほんまに助かった」、「そう言ってくれると、嬉しいわ・・・」、そう言葉を交わして握手した。
もう体力も限界。今日、やれる範囲のことはやったかなと思った。12時半頃、迷いながらも、現場を去ることにした。
※その後については、「6.30午後3時半から始まった大飯原発正門封鎖行動は、7.2午前2時に勝利的に貫徹しました。現場に駆けつけてくれた仲間、カンパで活動を支えてくれた仲間、情報拡散に尽力してくれた仲間のおかげで、大きな行動をとることができました。」とのことである。http://oi55.blog.fc2.com/blog-entry-77.html 映像でも「貫徹」の様子が確認できる。 http://www.ustream.tv/recorded/23699152
by nonukesdirectact
| 2012-07-05 11:51
